元福岡工業大学社会環境学部・大学院教授
現在、富士インターナショナルアカデミー学院長
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高多理吉プロフィール

高多 理吉(たかた まさよし)
 元福岡工業大学社会環境学部・大学院教授
 現在、富士インターナショナルアカデミー学院長、(一般財団法人)国際貿易投資研究所客員研究員

履歴

1943 鳥取県倉吉市生まれ
1968
香川大学経済学部卒 

1967年 ゼミ登山。乗鞍山(3,026m)登頂後の記念撮影。左から2番目。

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1967年 ゼミ登山。乗鞍山(3,026m)登頂後の記念撮影。左から2番目。
1968ジェトロ(日本貿易振興会、現日本貿易振興機構)入会
1970〜71
マラヤ大学留学(ジェトロ研修生)

写真は、1970年のクアラルンプール市。
当時は森の中に建物があったが、現在のクアラルンプール市は高層建築の中に、わずかに森がひっそりと残っている。
1970年のクアラルンプール市
1977〜81
ジェトロ・クアラルンプール事務所駐在員

パーティーも大切な仕事のひとつ。
写真のうしろ向き中央はタンスリ・トン・ヨン・ホン大蔵次官。右は日本マレーシア経済協議会のマレーシア側初代会長のタンスリ・ラジャー・モハール会長(首相特別顧問兼任)中央こちら向きが著者
(1979年3月、マレーシア・クアラルンプールにて)
パーティーも大切な仕事のひとつ。写真のうしろ向き中央はタンスリ・トン・ヨン・ホン大蔵次官。右は日本マレーシア経済協議会のマレーシア側初代会長のタンスリ・ラジャー・モハール会長(首相特別顧問兼任)中央こちら向きが著者
マレーシア王族の結婚式。
花嫁は我が家にホームステイしていた。(1980年)
マレーシア王族の結婚式。花嫁は我が家にホームステイしていた。(1980年)
マレーシア赴任後の家族(1978年)
マレーシア赴任後の家族(1978年)
1983マハティール首相著「マレー・ジレンマ」を翻訳(井村文化事業社⇒勁草書房)
国際交流部、企画部を経て
1988〜92
ジェトロ・ロンドン・センター調査担当次長として、EC(当時はEUではなくECと称した)の動向や、日本企業の対イギリス進出の調査・支援、イギリスの経済動向を調べた。(1988〜1992年)
調査部門のスタッフ5名、ローカル・スタッフはイギリス人1名、香港人1名。
1991年 ジェトロ・ロンドン・センター 調査担当次長
1989年、ゴルフ・コンペ。サウスポーのゴルファーはめずらしい。試合ではガッツが出て、優勝し通産政務次官杯獲得。しかし、イギリスのめぐまれたゴルフ環境でも仕事が忙しく、めったにコースを回ることなく帰国。
1989年 ジェトロ・ロンドン・センター 調査担当次長時代 ゴルフ・コンペ優勝
1991年、ケンブリッジ大学 総長 ウイリアムズ卿と大学経営に関して懇談
1991年、ケンブリッジ大学 総長 ウイリアムズ卿と大学経営に関して懇談
1991年、イギリス産業連盟 会長 ゴルビー卿とイギリスの製造業復興について懇談
1991年、イギリス産業連盟 会長 ゴルビー卿とイギリスの製造業復興について懇談
1989年、ヨーロッパ人と一緒にスコットランドへのパック旅行に参加。
イングランドとスコットランドの国境で、「かけ落ち夫婦」にさせられ、寸劇までやらされ、子どもの前でキスをさせられたため、恥ずかしくて顔をふせてしまった妻。
1989年 ジェトロ・ロンドン・センター 調査担当時代 スコットランドへ旅行
1992海外調査部欧州課長
1993総務部労務・人事担当主査
1995

貿易開発部促進事業課長

1996年、「中米5ヵ国展示会」責任者として説明に当たる。

1996年、「中米5ヵ国展示会」責任者として説明に当たる。
1997ジェトロ大分貿易情報センター所長
1998
貿易開発部長(事業内容:発展途上国への投資促進、途上国からの輸入促進、人材協力等の経済協力)
この間、アジア貿易振興機関フォーラム事務局長、中央アジア・コーカサス使節団事務局長、タイ、インドネシアにおける「自動車・同部品」ビッグ展示会・カンファレンス(日本・アセアン企業100社近く)の事務局長、エジプト貿易振興機関促進使節団ジェトロ代表等を務める。
1998年、マレーシアについて講演する(於 大分市)
1998年、マレーシアについて講演する(於:大分市)
1999年11月、第13回アジア貿易振興機関(ATPF)会議(於:ダッカ・バングラデシュ)
前列の一番右。
1999年11月、第13回アジア貿易振興機関(ATPF)会議(於:ダッカ・バングラデシュ)
2001
福岡工業大学社会環境学部社会環境学科教授(文系・新設学部)
財団法人国際貿易投資研究所(ITI)客員研究員就任、現在に至る
2001年、福岡に赴任直後、ある集会で夫婦で自己紹介をしているところ
2003
福岡工業大学社会環境学部社会環境学科・学科長(〜2005)

2003年、マハティール氏と6年ぶり再会
(記事は毎日新聞)
2003年、マハティール氏と6年ぶり再会
2003年、マハティール氏と6年ぶり再会
2005同社会環境学部・学部長(〜2007)
2007〜
大学院社会環境学研究科教授(文系、新設)就任、現在に至る。(学部教授を併任)

(担当科目)アジア経済論、経済発展論、多国籍企業論、国際貿易論、教養ゼミ、専門ゼミ、アジア環境協力特論、企業事例研究特論等
2011年、中村学園山陽高校・えこFIT交流会中村学園山陽高校・えこFIT
交流会
2007年、3期生のゼミの記念撮影2007年、3期生のゼミの記念撮影
2004年、1期生との飲み会2004年、1期生との飲み会
2010年、中村学園山陽高校と福岡工業大学社会環境学部との環境交流会

7月31日のオープンキャンパスの当日、社会環境学部と中村学園三陽高校との「環境交流会」が実施。
高校側からは、生徒7名、教員1名、社会環境学部からは、えこFIT代表3名、ビオトープ研究会代表1名、教員1名の総参加者13名による交流会となった。
2010年、中村学園山陽高校と福岡工業大学社会環境学部との環境交流会
2010年、中村学園山陽高校と福岡工業大学社会環境学部との環境交流会
2011年、中村学園山陽高校・えこFIT交流会

7月30日のオープンキャンパスの日に社会環境学部えこFITの学生と中村学園三陽高校の学生によるエコ交流会を、昨年に引き続き実施。
中村三陽からは学生9名、教員1名、社会環境学部からは、えこFIT3名、社会環境学部の学生4名、教員2名の総参加者19名となった。
2011年、中村学園山陽高校・えこFIT交流会
2011年、中村学園山陽高校・えこFIT交流会
2011
2011年3月11日、東日本大震災

2011年8月31日〜9月1日、現地を訪れる。

岩手県釜石市
巨大な貨物船が堤防を乗り上げていた。
この直後、巨大クレーンで撤去された。
岩手県釜石市 巨大な貨物船が堤防を乗り上げていた
岩手県釜石市市街地
姿を残している建物はわずか。大半はくずれ、ガレキと化していた。
岩手県釜石市市街地。姿を残している建物はわずか。大半はくずれ、ガレキと化していた。
宮城県名取市
犠牲者に捧げられた花が深い悲しみを訴えている。
宮城県名取市、犠牲者に捧げられた花が深い悲しみを訴えている。
2011年8月 宮城県名取市
2011年8月 宮城県名取市
2011年8月 宮城県名取市
2011年8月 宮城県名取市
20011年、ノーベル平和賞受賞者マータイさん死去

2006年来日時に福岡工業大で講演。案内役の多理吉教授に「世界を動かす運動も、最初は一人から始まる」と初志の大切さを繰り返した。
震災復興にも当てはまる教え。もっと話をうかがいたかった。
20011年、ノーベル平和賞受賞者マータイさん死去
2013
2013年2月19日、退官最終講義

日本は、今こそ過去の路線の延長ではなく、質的に転換を迫られていると考える。
イノベーション(革新)を理論展開したシュンペーターは「郵便馬車をいくらつなげても、それによって決して鉄道をうることはできない」と述べている。
今回の東日本大震災を機に、日本は新しい社会の構築を考えるべきである。
そのため、拙著『よみがえれ、希望の大地』(梓書院)を上梓したが、最終講義で、これまでの大学教員の総決算として、70歳定年退職を機に、現在の日本が抱える問題をまとめた。
これを、WEB上で公開した目的は、「今日本が変わらなくしていつ変わるのか」
「東北の復興なくして日本の復興なし」
との思いから、広く国民の皆様にも、日本の将来を考えていただきたいという趣旨からである。

福岡工業大学社会環境学部  
 多 理吉 退官最終講義より

2013年2月19日 福岡工業大学退官最終講義〜日本の将来について〜2013年2月19日 福岡工業大学退官最終講義〜日本の将来について〜2013年2月19日 福岡工業大学退官最終講義〜日本の将来について〜
2013年2月19日 福岡工業大学退官最終講義〜日本の将来について〜
2013年2月19日 福岡工業大学退官最終講義〜日本の将来について〜
2013年2月19日 福岡工業大学退官最終講義〜日本の将来について〜
2013年2月19日 福岡工業大学退官最終講義〜日本の将来について〜
2013年7月、富士インターナショナルアカデミー学院長就任
2015 2015年3月に行われた、富士インターナショナルアカデミーの卒業式の様子

2013年7月、富士インターナショナルアカデミー学院長就任
2013年7月、富士インターナショナルアカデミー学院長就任


現在 :
富士インターナショナルアカデミー 学院長
(一般財団法人)国際貿易投資研究所(ITI)  客員研究員

主要著書(論文省略)

「社会環境学への招待」 (2006年、ミネルヴァ書房、編者代表、及び共著)
「経済検証/グローバリゼーション」 (2001年、文眞堂、共著)
「外資誘致の時代」(1998年、日本貿易振興会、共著)
「現代イギリス評論」(1992年、日本貿易振興会、単著)
「世界貿易事典」(1969年、日本経済新聞社、共著)
「マレー・ジレンマ」(元マレーシア首相・トゥン・Dr マハティール・著)
(1983年、井村文化事業者⇒勁草書房、単独訳)

「高橋亀吉記念賞」佳作入賞「真のグローバル・スタンダードとは」(1999年、東洋経済新報社)
ジョン・F・ケネディー基金、毎日新聞社・懸賞論文入賞:「国連20年の歩みと将来の展望」(1965年)
ジョン・F・ケネディー基金、毎日新聞社・懸賞論文入賞:「アジアのナショナリズムと民主主義(1966年)

趣味

中学生時代には、天文少年を夢見て、150倍の天体望遠鏡のキットを買って、ブリキの筒や、三脚等を自分で作り、土星の環を見たときの感激は忘れることが出来ません。
読書が好きで、寝床で読むことが楽しみでした。
高い枕と電気スタンドで、グータラ読書を毎晩していたので、それが原因で、現在の頸椎ヘルニアになってしまったのではないかと思っています。
小学生時代から、クラシック大ファンで、人にも、家族にも見らないようにして、指揮をする癖が今でもあります。
クラシックだけでなく、高校時代、米軍放送から流れてくるカントリーウエスタンや、ジャズも好きになり、ロンドンでは有名なジャズクラブの会員になりました。
カラオケでは、演歌に変身します。
青春時代は、近くの山歩きが好きで、郷里で勝手に宮澤賢治のイーハト―ヴォを自分流に作っていました。
サックス奏者 マルタさんと サックス奏者 マルタさんと

スポーツ

小学校、中学校では、町の剣道場に通っていましたが、有段者直前でやめてしまったことは今でも残念。
ソフトボールにはまり、仲間と近所の女子高等学校の校庭でよく日が暮れるまでやったものです。
ポジションは、ピッチャーあるいはキャッチャーでした。

今の楽しみ

剣劇小説の読書、時代劇テレビの観賞。電話で孫の元気な声を聞くこと。
そして炊事です。
私は元来怠け者で昼寝できれば、最高のぜいたくです。
30代から、50代後半まで夕食を家庭で食べたことがない猛烈な仕事人間(仕事が好きというよりもやむなく)できたので、グータラできれば、とてもリッチな気分になれますが、周囲の事情がそれを許さず、そういう人生に生まれついているようです。

最も大切な人

妻です。一緒に人生を戦ってきた戦友です。

2002年、私の人生の戦友。現在、結婚四十年。
写真は自宅近くの公園。
2002年、私の人生の戦友。現在、結婚四十年。

家族の一員として癒してくれたハン君とリオちゃん

家族の一員として、家族を癒してくれたハン君(右)とリオちゃん(左) 1才頃

両方とも老衰で亡くなった。
家族の一員として、家族を癒してくれたハン君(右)とリオちゃん(左) 1才頃
ハン君。大の散歩好きで「サンポ」という言葉を聞くと、こういうポーズを取り飛んでくる。
ハン君。大の散歩好きで「サンポ」という言葉を聞くと、こういうポーズを取り飛んでくる。
ハン君。大の散歩好きで「サンポ」という言葉を聞くと、こういうポーズを取り飛んでくる。
ハン君。大の散歩好きで「サンポ」という言葉を聞くと、こういうポーズを取り飛んでくる。
リオちゃん。寝るのと食べるのが大好きだった。散歩は相棒のハンにしぶしぶおつきあい。
リオちゃん。寝るのと食べるのが大好きだった。散歩は相棒のハンにしぶしぶおつきあい。
甘えん坊のリオ(メス)

今後の人生

すでに、バイオマス・エネルギー・バイオマス利用・バイオマス関連機器の製造販売、特許運用管理の会社の一員なので、健康である限り、再生可能エネルギーと、廃棄物活用で、世の中に貢献していきたいと考えています。
「生涯現役」が私のこれからの座右の言葉になると思います。

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